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冷やし狸庵

原発・エネルギー問題を静かに考えるブログ。

高速増殖炉もんじゅの廃炉 - 関連する記事を読んで思ったことをあれこれと - その2 

‖ 人間の不完全性と、技術の進歩における可逆性・不可逆性の問題

高木仁三郎監修 新装版 反原発、出前します 高木仁三郎講義録
2011/4(1993年の再販) http://bit.ly/2kFLrEs

一部抜粋

 原発に限らず技術には事故がつきものです。事故のない技術はない。有史以来、どんな稚拙なものであっても人間が技術を持つようになって以来、技術のあるところには事故がある。それは人間が完全でない以上、当たり前のことです。事故が起きるのは当然であって、人間は事故と折り合いをつけながら生きてきたわけですが、原子力発電所の場合には、本格的な事故は絶対に起きてはならないものです。事故の確率を減らせばいいというのが普通の事故の考え方ですが、原発の場合はそれではすまない。たとえ百万年に一回の事故でも、それが本格的な事故であるならば、決して最大でも最悪でもなかったチェルノブイリの何十倍もの事故になる可能性がありますから、世界全体が破滅するかもしれない。一度たりとも許すことができないという意味において、原発の事故は特別なものです。その事故の可能性ゆえに原子力発電を許すことができないのです。



西尾幹二 平和主義ではない脱原発 現代リスク文明論
2011/12 http://bit.ly/2kFPX5W

一部抜粋

国家の運命にかかわる失敗は技術にあらず

 一方、私たちは今、近代社会の中で、”進歩の逆転”という現象に直面していることも忘れてはならない。便利なものを追い求めた結果、不自由を強いられている新しい局面に出くわす。・・原発も鉄腕アトムの時代には解放の理念だったが、自己否定が生じた。

 「あらゆる科学技術の進歩に起こった禍(わざわい)は、その技術により一層の進歩でしか解決できない」というのが、これまでの技術革新における考え方であった。だが、原発はそういう類(たぐい)の技術ではないのではないか。どんな技術も実験を要する。そして実験には必ず失敗がつきまとう。失敗のない実験はない。しかし、一回の失敗が国家の命運にかかわるような技術はおおよそ技術とはいえない。事故の確率がどんなに小さくても、確実にゼロでなければ、リスクは無限大に等しい。それが原発なのである。




平智之 禁原発と成長戦略 禁原発の原理から禁原発推進法まで
2013/5 http://bit.ly/2k4y0Lr

一部抜粋

◇世界で430基は試作段階

 「事故を起こす自動車を使っているのだから、事故が起こる原発を使っていい」という考えは詭弁を通り越して危険といわざるをえないでしょう。原発は一度たりとも事故が許されないので、自動車のように失敗に基づく改良を続けることができません。原発の利用は改良ができない装置を使うというリスクを回避する観点からも許されません。ちなみに、原発の運転経験は世界でまだ430基ほどです。つまり、自動車や飛行機に比べれば機械装置として試作段階なのです。このような未完成で、なおかつ改良もできない危険な原発を、しかも福島の甚大な事故を経験してもなお運転することに合理性も妥当性もありません。



人間は決して完全な存在にはなれない以上、世の中から事故がなくなることは無い。ある意味、人類の歴史は事故との妥協・折り合いの産物といえるのかもしれません。しかし、特に原子力・核燃料の場合は、その潜在的な危険性・リスクの観点から間違えてもらっては困るというのはたしかにあります。

また、平先生の指摘にもあるとおり、工業製品として見た場合の原子力というのは、例えば自動車の衝突試験のような同一スケールでの研究が実質的には不可能であり、市場に出回っている商品(原発)の全ては試作品と言っても過言ではないのでしょう。

槌田敦 石油と原子力に未来はあるか 資源物理の考えかた〔増補〕
1988/5 http://bit.ly/2kFMKDl

一部抜粋

子孫に対する犯罪

 原子力の場合はそれらの条件を確かめてから開発に入ったわけではない。そのうちに技術が解決するだろうと甘い考えで見切り発車ししてしまったのである。

・・

 人間の歴史をふりかえる時、われわれの子孫が内乱や戦争をしないとは考えられない。したがって、毒物の管理はいつか破られるだろう。・・だが、いったん大量に拡散したら、それは子孫を初めとして全生物の滅亡に直結する。

 ここが原子力の事故と普通の事故との決定的に違う理由なのである。つまり、普通の事故は一過性・地域性であるのに対し、原子力の事故は永続性・全地球性の打撃力を持っているからである。

 以上述べたように、原子力開発には可逆性、準可逆性の条件は保証されていない。



槌田先生は、技術の進歩は試行錯誤の方法を取る以外になく、それを否定はしないと前置きしつつも、それをすすめる上で2つの前提条件を提唱しています。それは、1つ目が「仮に失敗しても、出発点に戻れること(可逆性)」、2つ目は「仮に戻れなくても損害軽微であること(準可逆性)」です。抜粋した文章の最初にある「条件を確かめて開発に入ったわけではない」とはそうした意味です。その上で、槌田先生は原子力は可逆的でも準可逆的な技術でもないと批判しています。

また、槌田先生は別の項において、日本の原子力政策は「起こると信じうる最大事故」しか事故を起こさず、それ以上の巨大事故は「起こらないことを信ずる」ことを前提(想定不適当などとも言われますが)として推進されてきたと指摘した上で、「科学技術は信じる対象ではない(=原子力はもはや科学技術ではない)」と批評しています。

‖ 安全性の追求に終わりはないの胡散臭さ

原発はたしかに危険なものであり、例えば電力会社や原発推進の学者の方々は、「安全性の追求に終わりはない」なんてことを一応は仰っています。しかし、前回の話でも触れたとおり、巨大技術としての原発を管理する側(人・組織)の問題や、額面通りに安全性を追求し続ければコストや規制に縛られてしまうので、終わりのないはずの安全の追求には実は限界がある。そのため原発を動かすためにはどうしても、何処かで「線引き」をするしかない。つまり、結局は先ほどの「起こらないことを信じる」姿勢を取らざるを得なくなり、私にはどうにもこの辺が胡散臭く感じるわけです。

高木先生の言葉を借りるならば、決して最大でも最悪でもなかった福島原発事故ですら、その経済被害は民間企業が背負える額をとうに超えており、未だ不確定な要素が山積みです。

そして今後の懸念材料として、もし稼働中の原発で、福島原発事故当時の原子力委員会や東電の吉田前所長が一度は考えた最悪のケース(東日本の壊滅)が起きた場合には、その被害は想像を絶することになるわけです。

しかるべき責任のある立場の方から「そのようなことは起こらないと信じる」なんて言われても、ちょっと困ります。

その3につづく

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カテゴリ: 冷やしたぬき放談

テーマ: 政治・経済・社会問題なんでも  ジャンル: 政治・経済

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